トップページ > 監修者コラム > 副腎皮質ホルモンの実用化「3名のノーベル賞受賞者」
副腎皮質ホルモンは、今日の医療現場において欠かせない薬理活性物質となっている。初めて副腎皮質ホルモンが臨床応用されたのは1948年であるので、実に半世紀以上が過ぎたことになる。
さて、この当時の歴史を紐解いてみると、ライバル研究者同士の熾烈な争いがあったようで興味深い。特に、ライバルに大きく水をあけられていた研究者がとった起死回生の手段が面白い。
ケンドルは、コロンビア大学を卒業後、パーク・デービス社に入社した。当初は、主に甲状腺ホルモンの研究に従事し、チロキシンやグルタチオンの性質を明らかにするなど化学領域でいくつかの成果を挙げていた。
しかし、その後、同社を退社してメイヨークリニック生化学部門に移っている。この頃、ケンドルの興味を引いたのが、1930年に発表されたハートマンの論文だった。ハートマンは、「アジソン病(皮膚が黒褐色になり、衰弱して死に至る)に対して、子ウシの副腎皮質抽出物の投与が有効である」ということを示し、この抽出物を「コルチン」と名付けていた。
直ちに研究者の間で、コルチンの研究と実用化のための開発競争が始まったが、ケンドルには強力なコネクションがあった。彼は、早速、以前勤めていたパーク・デービス社と契約を結び、コルチンなる物質の大量抽出に着手した。彼が結んだ契約とは、副腎皮質からアドレナリンを抽出する代わりに、同社にとっては不要である皮質の部分を譲り受けるというものであった。こうして、ケンドルの研究室は、さながらコルチン製造工場のようになったが、目論みどおり大量のコルチンを抽出することに成功した。
ここまで来れば、後は、ケンドルの得意領域であるホルモンの精製をするだけである。彼は、コルチンの中から難なく8種類の化合物を単離し、この中で「物質E」と命名したものが最も薬理活性が高いことを見出した。この時点では、ケンドル自身も「世界の最先端に立った」と確信していたに違いない。
ところが、事実は違っていた。実は、欧州に思わぬ強敵がいて、ケンドルを上回る成果を挙げつつあったのである。
ケンドルがハートマン論文に基づいてコルチンを抽出し、そこから「物質E」を単離していた頃、欧州ではライヒシュタインが虎視耽々と逆転を狙っていた。ライヒシュタインもケンドルと同様に製薬企業とのタイアップによるコルチン抽出を試みていて、オルガノン社から副腎皮質の提供を受ける代わりに彼の技術を提供する形で研究を進めていた。
ライヒシュタインは、研究の着手ではケンドルに遅れをとっていたが、瞬く間に追いつき、追い越すことに成功した。最終的にライヒシュタインは、コルチンからケンドルを大きく上回る26種類もの薬理活性物質を単離した上、そのうち11種類の化学構造を明らかにした。さらに、合成に関しても、米国研究陣を抑えてライヒシュタインが先に成功を収めている。合成化学については、世界初のビタミンC合成にも成功しているように、ライヒシュタインが最も得意とする領域であり、またも完勝した。
このように、ハートマン論文に始まったコルチンの研究競争は、「米国パーク・デービス社−ケンドル組」対「欧州オルガノン社−ライヒシュタイン組」の戦いという様相を呈していたが、薬理活性物質の単離、構造分析、合成という時点では欧州側の圧勝という結果となった。
ライヒシュタインは、コルチン中の有力な薬理活性物質(ケンドルの「物質E」と同一物質)の合成にまで成功していたが、生成(製造)量は極めて僅かであり、いわゆる工業的生産には程遠いレベルであった。欧州の研究陣に大きく水をあけられたケンドルに残された挽回のチャンスは、この工業的生産領域と臨床応用の分野だけとなっていた。
これまでの経緯からすれば、ケンドルの挽回は困難であったと推察されるが、思わぬ追風が彼を救うことになった。この頃、副腎皮質抽出物をパイロットに投与すると、高いところを飛んでも酸素欠乏症になりにくいという報告がなされたのである。米国は、第二次世界大戦の最中であったので、この研究報告は、軍事利用が絡んだ大きな関心事となった。ケンドルはこの好機に乗じて、「物質E」の工業的生産に関する研究分野で、今度はメルク社とタイアップし、さらに研究規模を国家的プロジェクト規模にまで広げることに成功した。
戦争真っ只中に軍事目的が絡むとなれば、国力がものを言う。国家の支援を受けていた、ケンドル−メルク社の研究陣は、コルチンから「物質E」を900グラム精製することに成功した。この900グラムという量は、後に実施された臨床試験の3000症例分あたる膨大な量である。
コルチンの研究で、常に欧州研究陣に先勝されていたケンドルは、実用化の直前段階でようやく世界の頂点に立つことに成功した。
そして、最後に残された臨床応用という最大のテーマに関しても、ケンドルには運が残っていた。
メイヨークリニックの関節疾患部長(後に同クリニック・リウマチセンターの初代所長)をしていたヘンチは、ある「未知物質」を探し求めていた。彼は、臨床での経験から、黄疸が出現するとリウマチ性関節炎が軽快し、黄疸が消失すると再び増悪する現象に気づいていた。また、妊娠によって同様にリウマチ性関節炎の症状が軽減することにも気づいていた。
こうした一連の観察から、黄疸や妊娠によって分泌される何らかの「未知物質」が、リウマチ性関節炎の特効薬になるに違いないと考えたヘンチであったが、内科医の彼にとって、この研究テーマはあまりに難しすぎた。彼にできたことは、探し求める「未知物質」に該当する可能性のある物質を次々に患者に投与してみて効果を確認することだけであった。すなわち、臨床でのスクリーニングを行っていたのである。
なかなか有効な物質が見つからず困窮していたヘンチであったが、ある日興味深い情報が彼の耳に届いた。どうやら、同じメイヨークリニックにいる基礎医学のケンドルが、「物質E」なる薬理活性物質の大量精製(工業的生産)に成功したというのだ。
ヘンチは直ちにケンドルのもとへ赴き、臨床試験の実施のためのサンプル提供を依頼した。
「ケンドル先生、300ミリグラムほど臨床試験用に分けて頂けませんか?」
「ヘンチ先生、喜んで提供致しますよ。また必要でしたらいつでもおっしゃって下さい」
(何故なら、私はメルク社が製造したこの物質を900グラムも持っているのですから・・・)
こうして、ケンドルの「物質E」を300ミリグラム入手したヘンチは、リウマチ患者に1日100ミリグラムを3日間連続投与(筋注)した。すると、黄疸が出現したときのように、投与後数日してリウマチ症状が著しく改善したのである。
ヘンチが行った臨床試験の成功は、まさしく画期的大発見となった。彼が探し求めていた「未知物質」とケンドルから譲与された「物質E」とが同一のものかどうかは不明のままであったが、臨床効果は文句のつけようがないものであったからである。併せて、この臨床応用に際して大きな貢献(少しばかり量を作りすぎてしまったが・・・)をしたケンドルの名声も一気に高まった。無論、前臨床の段階で優れた手腕を発揮して常に世界をリードしてきたライヒシュタインの功績も称えられ、1950年のノーベル生理学・医学賞は、コルチンの基礎研究と臨床応用への成功により、この3名が揃って受賞した。学問的なオリジナリティーからすれば、第一報を出したハートマンが高いとも思われるが、いかに人類に貢献をしたかという点も選考の際に重視されるのが当時のノーベル賞の特徴である。ライヒシュタインが化学賞ではなく、生理学・医学賞を受賞したことも、このことを象徴している。
副腎皮質ホルモン研究領域の医学史は、最終的にはメイヨークリニックが舞台となったが、それまで欧米を代表する製薬企業が果たしてきた役割は非常に大きい。ただし、製薬企業を動かしたのは、ケンドルのホルモン精製技術であり、ライヒシュタインの化学技術であった。また、両者ともに製薬企業での勤続経験があり、コネクションと交渉能力にも長けていたことが推察される。ヘンチについては、名門メイヨークリニックの要職を務めていたことから、臨床医としての技能に関して疑問を挟む余地はない。同一施設にケンドルがいたという幸運も味方したが、運も実力のうちということであろう。
こうして見ると、臨床試験の部分を除いたほとんどの実作業を製薬企業が請け負っていたというのが実情であるが、3名のエキスパートが医学史上にその名を刻むこととなった。