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シェーグレン症候群と慢性甲状腺炎を結ぶ点と線「三宅速と橋本策」

はじめに

シェーグレン症候群のルーツは、19世紀後半から20世紀半ばにかけての欧州医学界にある。当時、欧州には多数の日本人医学者達が留学をしていたため、シェーグレン症候群に関する情報は何らかの形で国内に持ち込まれていたことが推察される。
その中でも、シェーグレン症候群の国際的認知の契機となったミクリッツ病の発見者である、他ならぬミクリッツ本人に師事をしていた日本人医学者の存在は見逃せない。また、その直弟子が発見した甲状腺疾患は、現在ではシェーグレン症候群の合併症として広く知られており、こうした点を結んでいくと、いわば線のような繋がりが見えてくるようで興味深い。

三宅 速(みやけ・はやり:1866〜1945年)の留学と驚異的な臨床実績

三宅 速は、1866年(慶應6年)、徳島県美馬郡三島村(現穴吹町)に三宅玄達の長男として生まれた。三宅家は、代々から外科医の一族として知られており、速は9代目であった。
12歳で上京後、英才教育を受けた速は、一族の期待通り順調にエリート街道を歩み、1887年(明治20年)に東京帝国大学医科大学に入学した。在学中は、学業優秀者として特待生になり、卒業時も首席であったという。
卒業後は、二年間、助手として大学に残って研究生活を続けていたが、年老いた父玄達の懇願で1893年(明治26年)9月に同医科大学助手を退官。故郷の徳島県に戻って、徳島県初の私立病院(三宅病院)を開設した。
その後、1898年(明治31年)には、当時ドイツ領ポーランドのブレスラウ大学に留学。内臓外科学の権威であったミクリッツに師事し、胆石症の研究を行った。また、ミクリッツには、ウイーン大学のビルロート(近代的胃癌切除術を世界で初めて成功)の助手を務めていた経歴もあったため、三宅は胃癌治療に関する様々なノウハウも相当手に入れたようだ。さらに、留学時期から考えると、日本ではまだ馴染みの薄かったミクリッツ病に関する情報も相当手に入れたのではないかと推察される。
1900年(明治33年)に帰国後は、ミクリッツに師事した経験を生かして国内の臨床分野で大活躍をしている。この当時、日本の外科学は、ようやく虫垂炎の手術が普及しはじめたという状況にあったが、「胆嚢摘出はミカンの皮を剥ぐがごとし」と公言し、胆石症700例以上、胃癌1600例以上、日本初の脳腫瘍摘出術の成功など、驚異的な臨床実績を積み上げていた三宅は、驚異的な存在であったことは想像に難くない。
医学以外では、ドイツ語が堪能であったこともあり、かのアインシュタインと深い交友関係があったことでも知られている。1945年の終戦直前、太平洋戦争の犠牲者となってしまった三宅の死を悼んで、アインシュタインから以下の弔辞が寄せられており、三宅の墓碑にはドイツ語の原文のまま刻まれている。
『医学博士三宅 速、その妻のミホ子、ここに永遠の眠りにつく。 共に人類の福祉につくし、共に人類の邪悪の犠牲となってこの世を去る。 アルバート・アインシュタイン』

橋本 策(はしもと・はかる:1881〜1934年)の発見

橋本 策は、1881年(明治14年)、三重県阿山郡伊賀町で代々医家の橋本家の三男として生まれた。本人は、政治家を志望していたとの逸話も残されているが、橋本家の長男と次男が早くに亡くなるという不幸もあって、最終的には親族の期待を背負う形で、当時新設されたばかりの京都帝国大学福岡医科大学(現九州大学医学部)に進学をした。
1907年(明治40年)に同大学を卒業すると、内臓外科学の世界的権威であったミクリッツの下から帰国した直後であった三宅 速の第一外科学教室に入局している。
そして、入局4年後の1911年(明治44年)には、特徴的な甲状腺炎を発見し、翌年には海外にも論文発表を行い疾患の独自性を主張した。この発見が後に評価され、「橋本病」(慢性甲状腺炎)という疾患名が国際的に認知されるようになる。また、橋本は、ミクリッツ病の唾液腺病変と自分が発見した甲状腺炎の病変とが非常に似ていることを記しているが、この指摘は実に的確である。何故なら、橋本が発見した慢性甲状腺炎とミクリッツ病(シェーグレン症候群)とは、同じ自己免疫疾患であるからだ。また、実は両者が互いに合併することも少なくないことが現在では明らかになっている。
その後、橋本は代々医家を継がなければならない事情で、若くして開業医に転向しているが、抜群の外科医術と誠実な人柄で盛業を極めたといわれている。

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